『イーダ』

第二次世界大戦終結から17年後の1962年。戦禍の傷跡もいえぬポーランドの修道院に孤児として育った少女アンナは、修道女誓願式を控えて、一度も会ったとのない唯一の縁者たる叔母ヴァンタを訪ねる。初対面の姪にヴァンタはいう、「あなたの名前はイーダ・レベシュタイン、ユダヤ人よ」と。イーダの両親は、ある寒村で大戦時に死亡したらしい。叔母の車に揺られてイーダのルーツ探しの旅が始まる。

冒頭の写真は叔母のところに赴くために修道院を出たところで、この時のイーダは世間知らずの敬虔な少女に過ぎない。雪の中につくられた足跡を踏み外さないように歩くだけだ。それは自分の意志によって歩く道ではない。先人が踏み固めた神への道である。少しぼやけた映像は、イーダの意志の不在を語っているのだろうか。

もう一つの映像は鮮明で、あなたは誰?と問いかけているかに見える。映画の中では、親の過去を探る途中で、イーダは叔母に「あなたは何者?」と問いただす場面もある。じつは、この叔母の正体が今ひとつわからない。かつては検察官だったらしいが今は何で生活しているのか怪しい。酒とたばこが手放せなく、いつも男の匂いがする。自分は「マグダラのマリアだ」などとイーダに打ち明けるが… 叔母が何者か、イーダにも分からない。いやそれ以上に、イーダは自分が何者かさえ分からなくなっている。「あなたは何者?」は「わたしは何者?」と言い換えてもいい。

二人は両親の暮らした農家にたどり着く。そして紆余曲折の末、イーダの家族が埋葬されている林の中の一角を掘る。出てきたのは子供の頭蓋骨だ。イーダに兄弟はいない。その子供は、危険を察した叔母が姉夫婦、つまりイーダの両親に預けたわが子だった。真実を知った叔母はほどなく窓から身を投げる。その投身ぶりが映画のハイライトの一つだろう。あまりにもアッケラカンとした自己抹殺ぶりで、朝御飯のトーストにかぶりつき、レコードをかけながら、吸いかけのタバコを灰皿においてヒョイっとばかりに、ほんの一跨ぎにあの世に旅立つのだから。

こうして、文字通り天涯孤独の身になったイーダだが、この叔母の死が彼女に一つの転機をもたらす。叔母の飲んでいた強いアルコールをがぶ飲みし、タバコをふかし、ハイヒールを履き、ノースリーブのワンピースに身を包み、ホテルのダンスホールへと急ぐ。

行先がダンスホールであるのには理由がある。叔母が運転中にひろってやったヒッチハイカーのサックス奏者がそこで演奏しているからである。イーダはその演奏をすでに聴いたことがある。聴いたどころか、彼の演奏するジョン・コルトレーンのバラード(『ネイマ』)に身も心も揺さぶられていたのだ。コルトレーンの演奏と修道女という組み合わせの妙には、はたと両膝を打ちたくなるところがある。ついでながら、コルトレーンの初のヨーロッパ演奏旅行は映画設定の年と同じ1962年だった。

人気の絶えたダンスホールで、イーダはサックス奏者と二人だけで、『ネイマ』のレコード演奏をバックグラウンドに生まれて初めて男と踊る。その後は自然の成り行きだろう。朝、男の眠るベッドで目覚めたイーダは、ここで叔母を理解し、その苦悩を十全に引き受けたのかもしれない。しかし彼女はベッドを後にする。修道服を着て、修道院への道をたどる、不思議な表情を浮かべながら。

夕闇の迫る、時々すれ違う自動車のライトが彼女の顔を照らし出す。修道院を出るときと同じようにちょっとぼやけた映像の中、あのときとはまるで違う息遣いをしているようだ。上気した足取りといおうか。彼女は修道女誓願式を何事もなく迎えるのだろうか。分からない。あるいは、これから修道院生活を捨てて新しい世界に、という解釈も可能だろう。でも、そうは思いたくない。

ただ、何かを得た。同じようなモノクロ映像にふさわしい修道女生活だろうが、今までとは違う、映像表現に託して言えば、もっと暗色に奥行きと厚みのある、信仰生活になりそうな予感がする。

2013年、ポーランド映画

監督:パヴェウ・アレクサンデル・パヴリコフスキ

 

むさしまる