ある重苦しい雲の垂れこめた日の朝、京城での有名な廓、新町裏小路のとある娼家から、みすぼらしい風采の小説家玄龍がごみごみした路地へ、投げ出されるやうに出て来た。
金史良(キム・サリャン)の小説『天馬』はこんな書き出しで始まる。「重苦しい雲の垂れこめた日」、「裏小路のとある娼家」、「ごみごみした路地」、「みすぼらしい風采の小説家」、「投げ出されるやうに出て来た」、と並べればすでに物語の基調が浮かんでくるようだ。抑圧的な環境にある裏世界に生き、社会の除け者とされる男の物語といえようか。主人公の玄龍はいろいろ画策するのだが、とどのつまりこの状況から抜け出すことができない。その八方ふさがりの姿がこんな物語の結末である。
「開けてくれ、この内地人を入れてくれ!
また駆け出す。大門を叩く。
「もう僕は鮮人(ヨボ)じゃねえ! 玄の上龍之介だ、龍之介だ! 龍之介を入れてくれ!」
どこかで雷がごろごろと唸っていた。
イメージを鮮明にするために少し説明が必要かもしれない。京城とは現在のソウルで、主人公の玄龍こと玄の上龍之介は一見して朝鮮半島出身の男と判断されそうな風貌を与えられている(作者がそのように記している)。玄龍は作家として一旗揚げようとして、朝鮮貴族の一流作家という触れ込みで日本にやってきたが芽が出ず、痴情事件で本国送還となり、ここでも文学世界から見放され落魄の身となっている。そこで玄龍は日本語で書くことを称揚、朝鮮総督府側の太鼓持ちとして再浮上を目論む。
金史良がこの小説を発表したのは1940年、東京帝大大学院在学中の26歳のときで、前年に『光りの中に』が芥川賞候補に選ばれ一躍注目を浴び始めたころだった。物語の時代背景はほぼ同年代と思しい。創氏改名がなされる1942年にはまだ間があるが、すでにこの年には朝鮮語新聞は強制廃刊にされ、朝鮮人文学者は日本語での創作を強いられていた。このような状況をふまえると、主人公玄龍の日本人への卑屈と朝鮮半島同胞への尊大を一概に指弾するわけにはいかない。じっさい、金史良の玄龍への態度、扱い方はなかなか複雑だ。玄龍を描くその筆致は辛辣で揶揄に溢れる一方で、ときに共感の顔も見せる(少なくともわたしにはそう読める)。
一般的な作品評価は、たとえば全集解題にある、「植民地朝鮮文学界において、時を得顔に大言壮語していた連中に対する金史良の抑えがたい憤りや侮蔑やが社会批判と見事に結びついた作品」(任展慧)といったところだろう。これに反論するつもりはない。ただ、こと玄龍に関していえば侮蔑や批判だけですますことはできない。たとえば日本語による表現活動礼賛が翼賛的迎合だとするならば、この小説を日本語で書いている著者自身の表現もしかりであろう。おそらく、金史良は二つの言語に引き裂かれた自画像の一部を玄龍に投影している。朝鮮半島にいる自分を東京で描いている、とでもいおうか。付記しておくと、金史良は時を同じくして、初めての朝鮮語による長編『落照』を執筆中であった。しかし、第一部を発表したところで、朝鮮戦争下での失命が完成を奪ってしまった(戦死ではなく病死らしい。従軍作家として朝鮮人民軍に参加しているさなかのこととされる。享年36歳)。大河小説を感じさせる風格で、未完が惜しまれる。
さて最初の引用文に戻ると、冒頭と結末部分を貫くのは「娼家界隈」である。「大門を叩く」の「大門」とは娼家の正門のことだ。なぜ「娼家」主舞台になるかといえば、朝鮮半島=実質的植民地=「娼家」という等式が根っこにあるからである。そもそも宗主国と植民地あるいは旧大陸と新大陸や西洋と東洋の関係には男女の結婚という図式が通底する。この作品中でも、玄龍は日本人の有力者に向って「男分の日本が女分の朝鮮に手を伸ばして仲よく結婚をしようというのにその手に唾をひっかける理由はないですからね。一つの体になることによって始めて朝鮮民族も救われるんです」と迎合している。しかし両者に対等の地位がなく、一方による暴力的ないし金銭的強制力があるとすれば、そのとき女性の暮らす場所は象徴的に「娼家」ということになろう。ならば、自らを日本人だと主張し、日本語による執筆をほめたたえる「鮮人(ヨボ)じゃねえ! 玄の上龍之介」に娼家の正門が開くことはないはずだ。
宗主国日本で、帝大大学院という特権的地位に身を置き、日本語によってこの物語を書いている金史良は、いつか自分に「娼家」の門が閉じられまいかと戦いていなかっただろうか?
むさしまる