友人の熱心なすすめで読みはじめた、ブルガーコフ(1891~1940)の『巨匠とマルガリータ』(1929~40にかけて執筆)だった。これがまた期待をはるかに超えるおもしろさ。現代ロシア(というかソビエト連邦)に得体のしれない魔術師ヴォランドが忽然とあらわれ、一党独裁下のモスクワで、次から次へといたずらをしては人々を騒乱に陥れてゆく、その痛快なストーリーにわれを忘れてしまった。

いたずらの相手は、たいがい独裁体制のなかでそれなりの地位を確保している連中だ。保身に走る彼ら、彼女らに仕掛けるいたずらは、ときに度を越えるけれども、体制に甘んじる人々が多少痛い思いをしても、こちらの心はちっとも痛まない。それどころか、ソ連体制への批判が感じられて、むしろ読んでいて小気味いい。

筋立ては錯綜しているので、書いてもあまり意味がない。ともかく、魔術師とその手下の神出鬼没ぶりは、時空間を縦横無尽に移動する破天荒な展開で、こりゃやっぱり、小説というより物語の醍醐味ではないだろうか。

神出鬼没と書いたが、その線でベストワンといったら、死者の舞踏会につきる。
これは、後半になってようやく登場する主人公マルガリータが、人語を話す黒猫のアザゼッロに誘われ、体にクリームを塗って空中浮遊できるようになり、史上有名な皇帝やら犯罪者やらがひしめくパーティーに、女王マルゴとして参加する、という、まあ一種の地獄下りだと思う。その豪華絢爛ぶりを描写する筆の力は、まさしく、一読に値する。

このような空間軸の多様さが、この小説の魅力の半分とすれば、もう半分は時間軸のそれである。小説の冒頭では、モスクワ市民の文芸関係の二人が公園のベンチでイエス・キリストのことを話題にしているのだが、そこにヴォランドが登場して、自分はイエスの処刑前後のことをその場で見聞きしているといって、語りはじめるのである。

ヴォランドのイエスをめぐるこの語りは、現代モスクワを舞台にした物語の途中になんどか点綴されていて、読者は2千年を往還するような感覚を覚える。通常のフィクションのなかのフィクション、つまりメタ・フィクションの構造と違って、同時に二つの時代を生きているような感覚で、ちょっと大げさにいうと、神の遍在を味わっているような錯覚をあたえる。

ところがイエスをめぐる物語は、マルガリータの愛人である、もう一人の主人公「巨匠」が書いた小説であることが最終的にわかる。やはりフィクションのなかのフィクションだったのである。とはいえ、最後にそれを知らされた読者は、だまされたと怒るどころか、物語の構造の巧みさにうーむと唸らざるをえない。

西暦元年当時と現代、彼岸と此岸をこれほど楽しく往還できる物語など、そうざらにあるものではない。蛇足めくが、作者ブルガーコフはウクライナの作家で、明らかな体制批判のゆえに出版禁止の憂き目にあった。ウクライナVSロシアの歴史的関係をも感じさせる一書であった。

むさしまる