新型の歯ブラシを作ろう、とか、機械を使わずに虫歯を抜く、ということではない。この場合の「ハイシャ」は、歯医者じゃなくて敗者だ。「そうぞうりょく」は創造力でなく想像力。すなわち『敗者の想像力』で今から30年ほど前に岩波書店から刊行された一書のタイトルである。「インディオのみた新世界征服」との副題を見ると、何をいいたいのかおおよそわかると思う。

そう、ここでの敗者とは南米インカ帝国の先住民族である。そして、勝者とは、スペインの小貴族の次男坊三男坊が役を演じた、悪名高いコンキスタドーレスにほかならない。「歴史とは強者の歴史のことである」とヨーロッパの誰かがいったが、この本を書いたナタン・ワシュテルもフランスの学者で、自分たちの立場をよく認識している。「…歴史を<裏側>から注意ぶかく観察しなければならない。というのは、われわれはいまだにヨーロッパ的な視点を<表>と考えることに慣れきっている」と記すことを忘れない。<裏側>から見るとは、次のような探究をこころざすことだ。

「…エスパーニャ人の到来とは、彼ら(=インディオ)にとって、自分たちの文明の崩壊を意味していた。彼らはこの敗北をどのように生きたか。それをどのように解釈したか。そして、彼らの集合的な記憶のなかに、敗北の追憶はどのように生きつづけているのであろうか」

こうしてワシュテルは、先住民の心の歴史を、もっといえば心の傷の歴史を、辿ろうとする。そのための資料として役立つものは、民族芸能すなわち伝統的な祭りである。広場で演じられるアタワルパの死、それを見守る現地の民衆、「ヨーロッパ製の」ラッパやユーフォニウムを手にするインカ族のオーケストラ団員たち…

こうした資料をどのように扱うか。ここでワシュテルの問題意識が生きてくる。彼は民俗学者と歴史学者の一人二役をめざす。民俗学は分析を通じて問題の全側面の統合を行なおうとし、歴史学はひとつの現実をいくつにも切り分ける。あるいは、「一方で、個別的で実際にあったものを復元すること、他方で普遍的な法則を追求すること」といってもいい。

つまり、「分析と具象との間の往復運動」、「理論的分析による抽象化と、生の体験の理解との間の緊張」がワシュテルの手法というわけだ。以上のことはワシュテル自身が序論に記したことを簡略化しただけのことだ。それに、彼独自の視点というわけでもないだろう。わたしがこの学者を信用するのは、いわば公式見解といえる往復運動論、抽象化と生体験との緊張関係論を越えて、ぽとりと熱い魂のようなものがほとばしる瞬間があるからだ。

この一節に耳を傾けてほしい。

「だが、こうした分析は、(あらゆる抽象作業の場合に起こることだが)歴史的事実の持つ、それ限りの、かけがえのない性質を見逃させてしまう。どのような定式化を行なってもはっきりと表現することのできない、独自の様式や、経験された個々の特異性が存在する。征服された人々の目に映じたものを理解するためには、土着の人々の証言に含まれたいっさいの詩、そしてまたいっさいのはげしさに身をひたす必要がある」

ここにはひとりの詩人の魂が宿っている。敗者の想像力を生きるには、詩人の想像力がなければならない。さもなければ、「征服者」の視点から「征服」を語り、それによって知らず知らずのうちに「征服」を再生産することになるのではないだろうか。

むさしまる