狂気のヴァリエーション——『セッション』に於ける音楽の魔性

「芸術上の——とくに音楽・絵画という純粋芸術の場合——才能とは病名のことではないかと思ったりする。とりわけ大いなる才能が宿る場合、宿主の魂を高貴にする一方で、宿主をたえずつき動かして尋常ならざる人生を送らせてしまう」

以上は、司馬遼太郎が、イコン画家・山下りんを論じた文章のなかの一節である(『街道をゆく33 白河・会津のみち、赤坂散歩』)。幕末、笠間の貧しい下級藩士の家に生まれた山下りんは、画業への情熱絶ち難く、曲折を経て、ペテルブルグまで赴くはめになる。彼の地の修道院でイコン画の修業をするためである。りんの望みは西洋画を学ぶことにあったのだが、修道女の身分としてそれはかなわなかった。

山下りんはゴーギャンとは9歳下の同時代人である。ゴーギャンはすでに印象派という西洋画の「革命」を経てきている。浮世絵の影響も受けて、非西洋的な平板な絵を特徴とする。明治初年の日本という西洋画に於ける孤島に生き、貧しく、しかも女性であったりんは、ゴーギャンとはおよそ対極にいたことになる。イコン画の平板さは、ヨーロッパの片田舎ギリシアの素朴画に由来するそうで、りんは、ルネサンスも、バロックも、古典派も、印象派も経験することなく、ほとんどの人生を修道院で送った。

さて、『セッション』の2人の主要登場人物の人生の軌道を狂わせるのは、音楽、それもジャズである。音楽大学でドラムを専攻する才能豊かな学生と、彼を指導する鬼教官、映画が描くのは、この2人の葛藤である。というよりも、葛藤しか描写していない。それでいてこの映画は、2時間をまったく飽きさせることはない。いわば、強力なジャズのセッションの連続なのだ。

この映画の成功の一端は、音楽に於ける葛藤しか描かなかったという単純さにある。主人公たちの生い立ちを語ることはないし、恋も刺身のツマでしかない。そうすることで、芸術の持つ魔性をくっきりと表出することができた。しかし、単純さだけでは2時間の長丁場はもたない。では、監督・脚本のデミアン・チャゼルはいかなる手段を講じたのか?

答えは「音楽」、そして「ヴァリエーション(変奏曲)」である。しかも渦巻き様に上昇するヴァリエーション。テーマは「狂気」。口汚い叱責、無理強いの競争、間違えることへの恐怖……教育の禁じ手がマゾヒスティックに繰り出される。まさしく音楽への愛と倒錯。生徒はそれに巻き込まれ、同じような狂気に陥る。

主人公2人の葛藤は、ジャズのスタンダードナンバー『キャラバン』で最高潮に達する。二転三転するこの最後の場面はじつにスリリングで、この映画を名作たらしめるに十分である。しかし私は、幕切れ寸前の数十秒間がどうにも気に入らない。やはりこの映画もアメリカ映画だったか、という落胆を覚えざるを得なかった。この理由はここには書かない。観てのお楽しみというところ。とはいえ、音楽という芸術を考察するには、近年稀な映画であることは間違いない。

2014年アメリカ映画

監督:デミアン・チャゼル
脚本:デミアン・チャゼル
音楽:ジャスティン・ヒューウィッツ
出演:マイルズ・テラー、J・K・シモンズ
2015年5月5日 於いてTOHOシネマズみゆき座

2015年5月29日 j-mosa