どうしてこんな面白い物語を読まずに積んでおいたのだろう。読み終わって、最初にこみあげてきた気持ちがこれだ。奥付は2008年10月だから、手に入れたのは今から10年前のこと。白状すれば、一度読み始めたのだが、たちまち挫折した。理由は単純明快で、本の余白があまりにも少なすぎた。文字間も行間も、そして余白もまた、呼吸できるだけの空間がなければ文字と文が生きてゆけない。余白の豊穣というではないか。

こうして背表紙ばかり眺めていた本がジョルジェ・アマドゥー『丁子と肉桂のガブリエラ』(尾河直哉訳,彩流社)だ。心機一転して手にしたのには、ワケがある。訳者の尾河は旧友で、この夏に入って体調を崩しているとの噂を耳にしたのだ。尾河訳の底力は須賀敦子賞に輝いた『カオス・シチリア物語』(白水社)で証明済みだから、余白の息苦しさに耐えさえすれば楽しい物語世界に浸れるはず、それで読み終わったら激励の感想を尾河に書いてやろうと思って「ガブリエラ」の物語に入り込んだのだった。

舞台は南米ブラジルの港町イリェウスで、ほぼそこのみで展開する。そして、この町こそが主人公といってもいい。町の面々が集まるバー兼レストランを軸に政治運動、男女の色恋沙汰、金儲けに群がる欲望の数々と、わたしたちの今の生活がそこに活写されたかのような、ちょっと猥雑で彩り豊かな世界が展開する。とどのつまり、イリェウスの町は生きているのだ。

町が主人公という点で、この小説はガルシア・マルケスの『百年の孤独』に似る。さらに、オノレ・ド・バルザック描くパリの物語にも通じる。

マルケスにもバルザックにもそれぞれの独創があるが、アマドゥーのそれは一風変わったガブリエラの創出であろう。この娘の常識破りというか余りにも天真爛漫な言動は、思わずわたしたちの守っている常識がマヤカシじゃないのか、と問い詰めてくる破壊力をもっている。結婚という制度もそれに縛られる性の営みも、ガブリエラという野性児にとっては欺瞞以外の何ものでもない。

さて、読了後の興奮を抑えがたく訳者本人に詫びを入れつつ感想を書いた。今頃読んですんまへん、でもこんな風に世界を丸ごと書く小説が少なくなったなあ、と。かの訳者はすぐ返事をくれた、あれは優れた全体小説だ、こういう小説が読まれないこと自体が日本の貧困を示している、と。

そんな風に怒っていた訳者尾河が、ガブリエラ発行のちょうど10年後のこの10月に他界した。あまりにも早い訃報に呆然とする。かつて谷沢永一は親友開高健の死去を悼むあまり『回想開高健』を書き、その末尾にこう記した。「これからの、わたくしの、人生は、余生、である。」 尾河の死を前にして、今あらためて、わたしは、この一文の読点の重みを噛みしめている。

むさしまる