ヴェルディの「新しい喜劇」——カルロ・リッツィ指揮『ファルスタッフ』

構築的で硬質な、ヴェルディ特有のオーケストラが会場に響きわたる。最初の音を聴いただけで、これは! と思う。緩急自在で重厚、さらに響きに奥行きが感じられる。それからの展開は、まったく期待を裏切らない。ああ、この音楽が、ヴェルディが到達した「劇音楽」なのだと、改めて彼の偉大さを実感する。歌手の声を聴くまでもなく、オーケストラが雄弁に物語を語っているのだ。いままで、CDで、ビデオで、もちろん劇場で、何度も『ファルスタッフ』は聴いているのだが、当日のカルロ・リッツィの指揮で、はじめてその本質を認識させられたように思う。

いうまでもなく、『ファルスタッフ』はヴェルディが創作した最後のオペラである。前作『オテッロ』から6年、しかも年齢はすでに79歳。功なり名をとげ、故郷近くの広大な土地に大邸宅も構えている。創作の苦しみを味わう環境であったはずはない。アッリーゴ・ボーイト(作曲家・台本作家)の巧みな勧めがあったとはいえ、なぜ彼はあえて作曲の筆をとったのだろう。その答えが、当夜の公演で少し理解できたような気がする。

モーツァルトの『フィガロの結婚』といい、ロッシーニの『セビリアの理髪師』といい、彼らの喜劇は音楽そのものが軽やかである。悲劇ばかりを27作つくったヴェルディの喜劇が、軽やかであろうはずはない(厳密にいうと、失敗に終わった『一日だけの王様』という喜劇が1作だけあり、彼がつくったオペラは合計28作)。音楽はやはり重厚といわざるをえない。しかし、そのなかに、おかしみが滲み出ていて、いささかの軽快さも垣間見られる。ある意味で、まったく新しい喜劇が生まれたのだ。そしてそこに、ヴェルディは、自ら到達した人生観を明瞭に反映させた。

それにしても、男というものは愚かである。ファルスタッフは名誉にしがみつき、性的欲求を制御できない。フォードは世間体ばかりを気にして娘の心を理解できないし、嫉妬深い。ファルスタッフの二人の召使いも日和見主義が甚だしい。彼らに比べて、女性陣のなんと溌剌としていることか。ファルスタッフの欲望をそらし、娘に対するフォードの無理強いを軽やかに指弾する。その手段は、まずは連帯である。そして、男の俗物根性を見事に利用する。暴力や恐喝などというやぼな手段は用いない。

もちろん、ファルスタッフとてやられっぱなしというわけではない。女性たちにさんざんいじられながらも、愚かな自分がいるからこそこのお笑い劇が成り立つのだと、太鼓腹をかかえて高らかに歌う。自分やフォードは馬鹿者だが、自分たちもこの世の中には必要ではないか、という訳だ。妻と二人の娘を亡くした絶望からヴェルディの心が自由であったとは思われない。売れないどん底の時代も忘れたことはないだろう。そんなヴェルディであるからこそ、重厚でありながらも軽やかな、新しい喜劇をつくることができたのだと思う。「人生は冗談!」。このフィナーレの大フーガを書くために、ヴェルディはあえて老いの筆をとったのではないだろうか。

ジョナサン・ミラーの舞台は、シックで奥行きが深く、簡潔。光と影が美しい。エヴァ・メイのアリーチェを聴けたことも嬉しいことだった。気品があり、機知にも富んだアリーチェにぴったり。若いナンネッタとフェントンを演じた幸田浩子と村上公太の高音の美声にも拍手。総じて、指揮、演出、歌手の三拍子揃った名舞台だった。

2018年12月9日 新国立劇場

指揮:カルロ・リッツィ
演出:ジョナサン・ミラー

ファルスタッフ:ロベルト・デ・カンディア
アリーチェ:エヴァ・メイ
フォード:マッティア・オリヴィエーリ
クィックリー夫人:エンケレイダ・シュコーザ
ナンネッタ:幸田浩子
フェントン:村上公太
メグ:鳥木弥生
バルドルフォ:糸賀修平
ピスト—ラ:妻屋秀和
カイウス;青地英幸

東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場合唱団

2018年12月10日 j.mosa