読まないでいるといつか後悔するぞ、と長年宿題にしていた作品のうちの一作をようやく手にした。『苦海浄土 わが水俣病』(石牟礼道子)である。「わが水俣病」のこの「わが」が凄い。「水俣病」の生まれた土地で、「水俣病」を生きざるを得ない人びととの精神的交流を続けた人間でなければ、こうは書けない。まさしく石牟礼道子は、汚れた不知火の海とその汚れを体内に蓄積した民と、そしてこの民が訴える運動の現場を、抱え込んで怯まなかった。
だが迷いがなかったとはいえまい。それを示すこんな一節がある。チッソ本社に訴え出るために上京して何日も座り込みをしたり、杉並の宿泊施設に寝泊まりしたりしている時期のものだ。
「かけつけられない人びとも、電話のむこうで報告のリレーを受けもった。それぞれが手分けして夜を徹し、抗議文書が出来あがる……。「……このような文案にいたしました……御賛意いただきたくて御電話申し上げる次第でございます」とわたくしは懇願しつづける。ひとりの尊敬する著名氏からは、「あなたはそういうことをせずに、じっと辛抱して書くべきですよ作品を。多勢の人間の、役に立たない抗議文書より、ひとりの人間の思いをこらした文学が、どんな効果を発するか、あなたも知らないわけではないでしょう」とのご忠告である。そのおことばは胸に応えた。応えすぎた。」
当該の著名氏の指摘はいちおう正論だ(「多勢の人間の、役に立たない抗議文書」の部分は正論とはほど遠いが)。けれども、とわたしは思う。石牟礼道子が「じっと辛抱できず」、ほとんど本能的に、義を重んじ民への情へと走ってしまう人でなかったならば、『苦海浄土』の一句一句がこれだけのエネルギーをたくわることはできなかったのではないか、と。このエネルギーはいわゆる文学的なものとは少し異なるような気がする。現場を尊重するドキュメンタリーのそれとも違う(大宅壮一ノンフィクション賞を作者が辞退するのも当然だ)。
なんといおうか、巫女のもつエネルギーとでもいうか。不知火の海を抱く天草から薩摩までの分厚い歴史を幻視し、そこに生きてきた、また生きている民の内面に同化する巫女、それが石牟礼道子という人ではなかったろうか。『苦海浄土』はたぐいまれなる巫女が綴った風土記でもあるか。
むさしまる