「新実徳英の世界 :螺旋をめぐって…生命の原理」

講師:北沢方邦、杉浦康平、新美徳英
演奏:長尾洋史、永井由比、寺岡有希子、上森祥平、上野信一、フォニックス・レフレクション
会場:セシオン杉並

いわゆるクラシック音楽フアンにとって、現代音楽というのは遠い存在である。かくいう私も、日頃聴く音楽はせいぜいベルク止まりで、まして日本の現代音楽を聴く機会はほとんどなかった。考えてみればこれはおかしな話で、私と同じ現代を生きている日本の作曲家が何を考え、何を表現しようとしているのか、当然興味を持ってしかるべきなのである。

これは音楽を聴く姿勢に問題があるのだろう。何を音楽から得ようとするかということである。美しさや快さのみ求める態度からは、現代音楽への道筋は見えてこない。いや本当は、古典派音楽でもロマン派音楽でも、作曲された当時は時代との闘いであり、そこから数々の名作が生まれたに違いないのである。

モーツァルトのオペラは、バロック・オペラとは決定的に違う。音楽そのものが構造的・立体的になり、それは例えば『フィガロの結婚』などにみられる複雑な人間関係を描く強力な手段を提供している。またその背景に、18世紀後半の市民階級の勃興という社会・経済的な事情があったということは間違いのないことだろう。

ヴェルディのオペラは、19世紀の国民国家形成の時代を抜きには考えられないし、ワーグナーのオペラは、その時代の革命精神と無縁ではないだろう。また、第一次世界大戦での悲惨な体験がベルクの『ヴォツェック』を生んだともいえる(このあたりの、音楽と社会、あるいは時代精神との関わりについては、『北沢方邦 音楽入門』(平凡社)に詳しい)。

私自身が音楽に求めるのは、美しさや快さだけではない。それらを含めた、時代を超えた、普遍的な価値――「人間の真実」とでも言えばいいのだろうか。しかし音楽を聴くにあたって、そんな観念的なことを考えているわけではまったくない。好ましい音楽か、そうではない音楽か、というだけであり、結果的にバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ヴェルディなどを聴く機会が増えたというに過ぎない。

12音音楽以降の現代の音楽は、時として面白いと感じるものの、感動とは異質のものであり、敬して遠ざけてきたというのが偽らざるところである。ところが、知と文明のフォーラムが主宰する、昨年の「西村朗の夕べ」といい、今年の「新実徳英の世界」といい、そこから受ける感動の質は、クラシックの巨匠たちの音楽から受けるものと異なるところはなかった。

今回演奏された新実徳英の作品でとりわけ印象的だったのは、『ピアノトリオ――ルクス・ソレムニス』である。あの、心の底から沸きあがってきた感動は、いったい何に触発されたものだろう。明瞭なメロディーが聴かれるわけではなく、際立ったリズムが感じとれるわけでもない。しかし、闇のなかから立ち昇ってくるような、いわく言いがたい抒情。西欧の楽器で奏でていながら、西欧の音楽からは絶えて耳にしたことがないような響き。音が光のなかに密かに立ち現れ、静かに渦を巻き、それが少しずつ高みに昇っていく。高みで音は緊張感のなかに持続して、エネルギーそのものと化す。圧巻だった。ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、三つの楽器の奏者の腕は確かで、彼らの奏でる音は、まるでこの世のものとは思えないような響きであった。

新実は、音は作り出すものではなく、受け取るものだと言う。「音の闇」の住人である作曲家に、あるとき天啓のごとく、「あるものの全体」がやってくる。それをかたちにするために作曲をするのだと言う。私が聴いた音は、その、「あるものの全体」そのものだったのだろうか。不思議な体験であった。(森)