企業の文明論的展開

講師:日置弘一郎

去る5月19日と20日の両日、伊豆高原のセミナーに参加し、日置弘一郎先生のお話をうかがいました。

経済学vs経営学の観点から、生産を重視する経済学と生産・消費・廃棄まで考える経営学の対比がとても新鮮でした。フィジカリティーの欠如する経済学(この場合マクロ経済学のような気がしますが)と身体性を基軸とする経営学は、この限りではもちろん経営学に軍配があがるのでしょうが、経済学者側の反論をうかがいたくなります。ここには、理論と現場という、近代以降そもそもから両立しがたい、とりわけ学問分野の細分化にともなっていよいよその傾向が強い、一大問題が横たわっていると思いますが、それはともかく、生身の人間を勘案すべき経営学のリアリティーには、いちいち頷かされました。わたしにとっては、まったく思ってもみなかった“経営学”の世界が提示されました。

しかし、さらに頷かされたのは、市場の「市庭(いちば)」化の可能性というか、提言です。網野善彦から示唆された、この「市庭」論こそ今回のセミナーの白眉でした。

ところで、赤坂憲雄の『異人論序説』によれば、もともと「市」というのは、山の民と平野の民(つまり移動の民と定住の民)という異なる社会の者たちが、たとえば熊の毛皮と米を交換する場として、二つの社会の境界に開いたものだといいます。南米アンデスなら、高地と低地をつなぐ場です。海抜数千メートルの階段畑の作物と海産物をつなぐ場です。「市」はモノの交換によって異なる世界をつなぐ窓口ということになります。

そのような「市」は、これまでわたしにとって興味深い対象としてあったのですが、日置先生の「市庭」からは、結節点というより、もっとそれ自体として自立的な、ある種自然な力をもつ有機体的構造物が見えてきます。売れ残ったものの再利用までとことん考え、すべてのものを、あるべき循環のなかに還す営みの場です。それを、先生は「人間の振る舞いの場としての市庭」と表現されました。

該博な、しかも実地検分つきの情報に裏打ちされた“経営学”セミナーでした。こういう講義は大学生ばかりでなく、一般市民の方々に是非とも聴講していただきたいものです。(片桐)