グエン・ティエン・ダオの世界
講師:北沢方邦
対談:グエン・ティエン・ダオ、西村朗
演奏:上野信一、奈良ゆみ、内海源太
会場:国立オリンピック記念青少年総合ホール小センター
私が、プログラムの中で、興味を持って望んだのは、《INORI3・11》でした。他国の作曲家が、我が国がかつて経験したことのないほどの悲しみを、どのように表現するのか、大変に興味がありました。第1楽章から第4楽章まで、それぞれ、性格がはっきりしており、のどかで平和な日々から、突如、震災に見舞われ、その後の悲しみから祈りへと進んでいったのが非常によくわかり、私たち日本人誰しもが持っている心の動きそのものでした。ベトナム人作曲家がここまで表現してくださっていることに、非常に感慨深いものがありました。
続く《ジオ・ドング》は、このような形態のものを初めて聞きましたが、音楽というのか、声というのか、その不思議さに見せられました。特に、奈良ゆみさんの表現のあまりの多彩さは驚異的だったと誰しも思ったのではないでしょうか。最後の『テン・ド・グ』は、パーカッションの圧倒的な迫力と聞いたこともないようなエレクトーンの表現方法に、これもまた驚きでした。非常に興味深い、大きな感銘を与えられた音楽を聞かせてもらうことができ、充実しておりました。
途中の、西村朗氏のメシアンに対するご意見には大変に興味深いものがありました。メシアンが、鳥の声を1つ1つ音符にして「スケッチ」していたとのこと。しかし、これに対して、「果たして、我々日本人は、鳥の声をそのように聞くだろうか。ただ単に、音の高低とリズムだけのものとして鳥の声を聞くのだろうか。森の中にあって様々な聞き方をするのではないか。これが西洋音楽の限界なのか」といった指摘です。
そこで、ふと思い出されたのは、ベートーベンが《田園交響曲》について、「この交響曲は、単なる田園の情景の描写ではなく、感情を表現したものだ」と述べた言葉でした。『田園交響曲』では、特に2楽章の最終部分に、フルートで鶯、オーボエで鶉、クラリネットで郭公の鳴き声が演奏されます。これらを指摘して、鳥の鳴き声を模写描写したものなのかという論争がされることがあります。
この点について、ロマン・ロランが、「ベートーベンは、(自然音を)模倣描写したのではない……(聴覚を失いつつあった)ベートーベンは、消滅している一世界を、自分の精神のうちから再創造したのである。小鳥たちの歌のあの表現があれほど感動を与えうるのは正にそのためである。小鳥たちの声を聴きうるためにベートーベンに遺されていた唯一の方法は小鳥たちをベートーベン自身のうちに歌わせることだったのである」と述べたことが思い出されます。
ベートーベンにとっては、鳥のさえずりがどんなに感動的であったことでしょう!そして、それは、《田園交響曲》の第5楽章のいよいよクライマックスに向かう最終の部分で、フルートがこの楽章の主題をまるで鳥のさえずりのように響かせるが、そのとき、ベートーベンは、もう聞こえなくなってしまった鳥の声を懐かしみ、まるで、鳥の姿を少し淋しげに目で追っているかのように聞こえます。私は、小学生の頃から、田園のこの部分を聞くとそう思っていました。ここがまた、ベートーベンの音楽の感動なのです。
ベートーベンにとっては、自然そのものが感動であり畏敬すべき存在であって、それを私たちに伝えてくれます。単に、自然界を模写描写したものを伝えるだけあれば、音楽にする必要はありません。それは、一人一人が森の中へでも行って自ら聞いてくればよいのです。芸術というものは、その人の思想の表出であって、科学でも機械でもない。こんな事を、西村氏のお話を聞くうちに考えたものでした。そして、この自然なるもの、宇宙の壮大さを認識し、人間もその一部であることに思い至ること。これこそがまさに我々「知と文明のフォーラム」の目的とするものだったということを改めて思い知らされました。
『グエン・ティエン・ダオの世界』は、単に、ベトナムの音楽を紹介することや、西洋と東洋の結びつきを探求するきことのみを目的としたものではありません。これらを通じて、人の根元とは何なのか、人が行くべき道は何なのかを探求し、貢献することにあるはずであり、今後、最も必要となっていく作業であることでしょう。
今回のコンサートが、ベトナムに対する親近感と郷愁を呼び起こしたことは間違いありません。(寺本)
9月29日土曜日の夕、国立オリンピック記念青少年総合センター小ホールに於いて(財)知と文明のフォーラムの主催によるコンサートが開かれた。昨年3月11日の東日本大震災の犠牲者への鎮魂の祈りの曲の世界初演をはじめとするダオ氏の作品の演奏と、現代日本を代表する作曲家のひとりである西村朗氏との対談、そしてフォーラムの代表である北沢方邦氏のレクチャー、という充実した内容の会であった。
祈り、について、私自身、日常的にも繰り返しよく考えるテーマである為、ヨーロッパで学ばれたベトナムの作曲家のダオ氏がどんな表現をされるのか、とても楽しみであった。今回の作品では、祈り、を伝える媒体として、打楽器と人間の声、が選ばれた。人の魂、あるいは霊の根源を、人間誰もがもつ声、と、原始の時代から人間が自然と身につけた、叩くということによる伝達方法により表現された。
祈り、とは一体何であるか……。素朴に何か欲しい、あるいはこうありたい、と願うことから、自分を無とし、より大きな存在に対して救いをもとめるもの、又無念無想の境地を求めて瞑想するものまで、国や宗教、又民族の違いなどにより、人は様々な祈りに向き合って生きていると思われる。表面的な祈りの言葉を口にする事は簡単であるかもしれないが、心の底から、本当に祈る、ということは、平穏に暮らしている人間にとってはとても難しく、遜って自分を見つめ直す作業は苦しいものだと感じている。
私の育った家庭は日蓮宗の檀家であり、又近所の氏神様の氏子でもあった。幼稚園は日蓮宗のお寺の幼稚園で、お弁当の時間には、こんしーさんがいがいでーがーうー、にーこんしーしょー……と皆でお経を唱え、日曜日には近所のカルバリ教会でスウェーデン人の牧師さんと一緒に、いつくしみ深き友なるイェスよ、と讃美歌を歌って成長した。小学校は公立で宗教色は全くなく、中学高校はカナダ人ミッショナリーにより設立されたプロテスタントの女子校で楽しく充実した日々を送ったが、宗教的には、一日を礼拝で始め、新約聖書は他のどんな書物より詳しく読みくどき、季節ごとにボランティア活動を重ねる、という教育を受け、思春期の内面の成長に大きな影響を受けた。
中でも6年間、一週間に何回も礼拝のピアノ(オルガン)を担当し続けたことは、その後の自分の音楽人生の、人前でピアノを演奏することの原点となった、と実感している。全校生徒が講堂に入る前から前奏を弾き始め、最後の一人が退場し、講堂の外に去るまでの礼拝の全ての時間、いつも生徒の信仰心を高める為にどの様に弾いたら良いか、と思いをめぐらせていた。讃美歌の伴奏はもちろんであるが、私にとっての一番の関心は、礼拝の終わりの祈りのあと、全員が黙とうし後奏のピアノに続く、そのピアノの出だしをどのタイミングでどんな音で弾きはじめるかということであった。私はこの祈りの時間いつもこっそり目を開けて講堂の檀上のピアノの位置から皆を見下ろし自分の出すべき音をはかっていた。こんな具合の日々であったから、高校を卒業するころには、全く祈れない自分を自覚するようになっていた。
その後成人してカトリック信者と結婚した私は、宗教的に、又祈りのかたちにおいても、多種多様なものを経験し、本当に苦しい時には、キリスト教の祈りと仏教の瞑想を併せて修行し思索を重ねる何人かのカトリックの司祭の著作や言葉に救われたものである。祈る、ということをおぼろげながら理解できるようになったのは、50代もやっとなかば過ぎてからのことと記憶している。
さて、ダオ氏の作品は素晴らしく、INORI 3・11の演奏も一人芝居を見るような、奈良女史独特の世界観によるものであった。ヨーロッパの歌曲ではなく、といって、東洋のうた、ともいえない、人間の声にはこんな多様な表現があったのか、とひきつけられた。ただ残念だったことは、テキストに日本語がつかわれた部分につき、言葉が音(オン)として聞こえ、意味ある言霊として伝わってこなかった点である。日本の古い時代の言葉を西洋の発声で歌う、ということはやはり非常にむずかしい事なのかもしれない。プログラム最後の、打楽器協奏曲 テン・ド・グはオーケストラをエレクトーンに代えての演奏であったが、上野、内海両氏の熱演でもり上がった。作品も演奏も、聴く人を力づける強さと暖かさが感じられた。
ダオ氏と西村氏の対談は、メシアンの鳥の声の書き取りの話など大変興味深く、又、西村氏の真言宗についても、是非とも、第2回の対談の実現を期待したいものである。それぞれの民族固有の音楽と西洋の音楽の融合性、又音楽における東洋の瞑想などにつき、続きを聞く機会があれば幸いである。
INORI 3・11は、もし機会があれば、実際に被害にあった人々の声、津波から生還した人々の浜の太鼓で聴いてみたい。人間の魂からほとばしる祈りは、素朴であっても力強く、東北の人々の大きな再生の源になることだろう。(佐藤)