嘘と愛と戦争と――黒沢清『スパイの妻』
娯楽性と社会性が見事に融合した、これぞ映画だ、という骨太な作品。話はサスペンス映画の様相を呈し二転三転するし、女と男の関係の複雑さも丁寧に描いている。茶の間で観た映画とは思えない、リアリティがあった。2020年6月にNHKBS8Kで放映されたあと、10月にはサイズと色調を変更のうえ、劇場で公開された。私が観たのは、そのBSの2K版ということになる。
未見の方のためにストーリーの詳細は省くが、時代は1940年、太平洋戦争前夜である。主人公聡子の夫福原は、商社を経営する青年実業家。仕事で満州に赴くことになり、そこで、細菌兵器を研究する施設の実態を知ることになる。もともとリベラルな考え方の彼は、その非人道的なあり方を世界に広め、戦争の拡大を防ごうとする。
平和を求める福原のその行為は、日本政府からすればスパイであり、聡子はその妻ということになる。福原は、自らの意思を妻には隠し通そうとし、妻は夫の行為に疑念を抱く。このふたりをめぐるスリリングな描写は、「愛するということ」、あるいは「信じるということ」の意味を深く考えさせられる。そして、この愛を核にして、物語は進んでいく。
この映画を観たとき、私はたまたま、吉村昭の『蚤と爆弾』を読んでいた。この本は、満州の細菌兵器研究所、正式には関東軍防疫給水部本部についての、詳細なノンフィクションである。ここでは、映画からは少し離れるけれど、あまり知られることのないこの細菌兵器研究所について、少し触れておきたい。映画の主人公たちが、その非人間性について衝撃を受けたのは当然である。
1939年に、ハルビン南方20kmの平房に設立された関東軍防疫給水部本部は、細菌兵器を主に研究する施設だった。軍医、兵、軍属あわせると、終戦時には3千名以上の大世帯だったという。兵器とする細菌はペスト菌がもっとも有効であると考えられた。ペストは致死率が高く、未治療の場合の致死率は60~90%だという。ペストはネズミのあいだで流行する。ネズミにはノミが寄生して、そのノミが人間にたかるとたちまちペスト菌におかされる。ペストネズミとそれに寄生するノミを大量に生産し、それを敵に送る、この方法を研究することが関東軍防疫給水部本部の目的であった。
数十万匹のネズミと数億匹のノミ。ネズミにはペスト菌が注入され、寄生するノミはたちまちペスト菌に侵される。そして、何千人もの捕虜が人体実験に供された。死亡者は3千人を超えたという。映画の主人公福原が満州で見た悲惨な光景とは、この累々たる死体の山であった。
細菌兵器は毒ガス兵器などとともに、国際的にその使用は禁じられていた。しかし、このプロジェクトを推進した陸軍軍医中将石井四郎には、後悔の念は微塵もなかったようだ。銃や大砲などすべての兵器も、人を殺すためにつくられているではないか。一瞬にして10万人もの人間を殺傷した原子爆弾は、非人道的ではないのか。彼なりの論理は一貫している。もちろん、原爆投下も、東京大空襲も、細菌兵器使用も、非戦闘員の大量虐殺という点では、戦争犯罪に他ならない。
細菌兵器製造の証拠をもってアメリカへ渡ろうとした福原はいったいどうなったのか。そしてスパイの妻聡子は、戦後、福原をどのように探そうとするのか。謎を投げかけて映画は終わる。余韻たっぷりで、さまざまな想像がかけめぐる。
ちなみにこの映画は、第77回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞(最優秀監督賞)を獲得し、2020年度の「キネマ旬報」日本映画部門の第1位となった。納得である。
2021年4月12日 NHKBSプレミアムで放映
2020年日本映画
監督:黒沢清
脚本:濱口竜介、野原位、黒沢清
音楽:長岡亮介
撮影:佐々木達之介
編集:李英美
出演:蒼井優、高橋一生、東出昌大、坂東龍汰、恒松祐里、みのすけ、玄理、笹野高史、佐藤佐吉
2021年4月22日 j.mosa