宗教は社会を救えるか?――胡傑監督ドキュメンタリー『麦地沖の歌声』

画面いっぱいに老女の顔が映し出される。日焼けした、深い皺が刻まれた顔。どこかで聴いたような節回しで、低くなにかを歌っている。イギリス民謡か。しかしそうではなかった。この歌は、この地方で100年の間歌い続けられている聖歌であった。十字架に架けられたイエスのことを歌っている。さらに、いまに生きる私たちも、十字架を背負って生きているのだと。

じつに秀抜な幕開けである。この一シーンで、この映画の核心がすべて表現されている。しかも、この映画は、劇映画ではなくドキュメンタリー映画なのだ。胡傑監督は芸術的才能が豊かである。映像の構成美はもちろんだが、インタビューの被写体の表情や話をする姿勢など、まことに自然。中身の濃い内容ともあいまって、一気に胡傑監督の世界に引きこまれた。

胡傑監督は、雲南省の山里に美しい歌をうたう人たちが住んでいる、という友人の話にまず興をおぼえた。そして、遥かな旅をして、その美しい歌をうたう人たちを訪ねた。美しい歌は、キリストを讃える聖歌であることが分かった。そして、インタビューを重ねるにつれて、麦地沖(ばくちちゅう)という寒村の100年間の歴史が立ち上がってきたのであった。

辛い体験を経てきた人たちの話は、紙に書かれた歴史書を超えて、はるかに説得力がある。まして、彼らが住んでいる風土のなかで語られると、その話は聴く者の心に沁みわたる。胡傑監督のドキュメンタリー映画が強い説得力を持つゆえんは、まさにここにある。

それにしても、インタビューに答える村の長老たちの記憶力と、歴史認識の深さには驚かされる。貧困のなかで、牛馬のように生きていたミャオ族の人たちが、キリスト教の宣教師の力をえて「世界」を獲得していく過程が、なまなましく、そして論理的に語られるのだった。

ミャオ族は、おもに中国の山岳地帯に住む少数民族である。人口は約900万人。20世紀のはじめ、彼らのなかにイギリスから宣教師が入る。メソジスト派の人々であった。文字ももたない、貧しい人々に対して、彼らはどのように布教したのか。この映画は、布教を受け入れた側、すなわち、文盲の農民の側から、キリスト教布教の実態を語っている。この点でも、非常に貴重な歴史的資料ということができる。

私がなにより驚いたのは、文盲のミャオの人々に、文字をもたらしたことである。立役者はポラルド牧師で、数ヶ月で文字をつくったという。そして、ミャオ語の『マルコ福音書』まで出版した。1903年から06年にかけてのことである。村にはその現物が大切に保管されている。ポラルド牧師の手になるミャオ文字は、現在も使われているという。

ポラルド牧師はいったんイギリスに帰り、歯科を学んだ。病人を治すこと、薬を与えること、これらも布教に欠かすことはできない。彼はこの地に灑普山教会を建てているのだが、この教会はいまもなお、村のコミュニティの中心である。そして、ここで歌われている讃美歌こそ、「雲南省の美しい歌」の正体であった。村の女性たちは、数人集まれば讃美歌をうたう。それは完璧なポリフォニーで、まことに美しい。

1949年に中華人民共和国が成立する。そして、66年から76年の10年間、文化大革命の嵐が吹き荒れる。共産主義にとって宗教は阿片である。「キリストか毛沢東か」の選択を迫られる。江戸時代のキリスト者が踏み絵を強要されたのと同じ状況が、50年前の中国で現出したことになる。踏み絵を踏まなかった村の指導者二人が殺害される。しかし信仰は生き続けた。江戸時代でもそうであったように。

現代中国においては、宗教は届出制であるという。監視を強めておけば、宗教も無害ということか。世界第二の経済大国となり、体制維持に自信を深めているともいえる。しかし貧富の差を表すジニ係数は、社会騒乱の警戒ラインとされている0.4をはるかに超えている。それに、言論弾圧の凄まじさは、香港問題をみても明らかである。

灑普山教会に集う「キリスト教共同体」の人々の表情は穏やかであった。互いに助けあい、美しい歌声も響きわたる。現実の苦しみは、天国で癒される。宗教の力強さをみる思いである。この小さな共同体が、いびつな国家資本主義の中国にあって、これからも末永く維持されていくことを願わずにはいられない。経済的な豊かさを求めて、街に出る若者が増えつつあるという現実はあるとしても。

追記
このドキュメンタリー映画は、専修大学の土屋昌明教授のリモート授業の一環で観させていただいた。ネットで上映後、学生たちが感想を述べたが、胡傑監督が中国から授業に参加されたのは嬉しいことだった。贅沢な時間を共有させていただき、土屋教授には厚く御礼申し上げる。なお上掲の写真は2018年の上映会のもの。

2021年7月9日 専修大学土屋昌明研究室

『麦地沖の歌声』
2016年インディペンデント・ドキュメンタリー

2021年7月15日 j.mosa