北朝鮮は「地上の楽園」か?――ドキュメンタリー映画『スープとイデオロギー』

この映画の主人公は、1930年生まれの、在日コリアンの老女である。オモニ(母)という言葉がぴったり感じられる、まことに存在感のある美しい人で、この映画の監督、ヤン・ヨンヒの実の母親である。

2015年。大阪でひとり暮らしをしているオモニを娘は訪ねる。彼女は母親に詰問する。なぜ、いつまでも送金し続けるのか、と。それもひとつの家族宛てではなく、何カ所も。通帳を出させて、現況を確認させもする。借金してまでも肉親に送金し続ける母親を、娘は理解できない。母親は、北朝鮮にいる息子たちに金を送っているのだった。

ヤン・ヨンヒ監督は4人兄妹の末っ子である。3人の兄は、すべて「帰国事業」で北朝鮮に渡っている。帰国事業とは、1959年12月から20数年間にわたって続いた北朝鮮への集団移住のこと。9万人以上の在日コリアンが北朝鮮に渡ったという。ほとんどが、差別と貧困に苦しんでいた人たちだ。しかしオモニの一家は、むしろ北朝鮮に「地上の楽園」をみていたのか

アナキストを自認する娘は、オモニやアボジ(父、2009年に死去)とは考えを異にしていた。アボジは朝鮮総連の活動家であり、オモニは長年彼を支えてきた。両親にとって、アメリカや日本の政府は敵に等しい(両国は北朝鮮とはまだ国交を回復していない)。娘が日本人と結婚するなど、夢にも思っていなかったに違いない。

ところが娘は、日本人と結婚する。それも12歳も年下の男と。彼が結婚の承諾を求めにオモニの家を訪れる場面は秀逸である。2016年の夏。暑い日にも関わらず背広にネクタイ。大汗をかき、緊張の面持ち。迎えるオモニもぎこちない。食卓を囲むことで、空気が和む。そこに出された一品が、鶏を丸ごと煮たスープである。腹には、高麗人参と大量のニンニクが詰めこまれている。映画のタイトルのスープは、もちろんここからきている。

娘が、「済州(チェジュ)4・3事件」と母親との関わりを知るのは2017年である。済州島から「済州4・3研究所」の研究員たちが訪ねてきて、オモニにインタビューをする。1945年の大阪大空襲のあと、15歳のオモニは両親の故郷である済州島に疎開したのだった。そして、1948年の事件に遭遇する。

朝鮮半島が北緯38度線で分割されたのが1948年。4月3日、済州島では、それに反対する武装蜂起が決行される。主体は、サンプデ(山部隊)と呼ばれた南朝鮮労働党の若手党員たちで、300人程度の規模だったらしい。オモニの婚約者もそのうちのひとりで、彼女はアジトまでガソリンを運んだという。

この小さな抗議活動に対して、当局の鎮圧作戦は凄惨を極めた。朝鮮戦争(1950~53年)の時期までに、3万人近い島民が犠牲になった(当時の島の人口は28万人余)。オモニの伯父も銃床で殴り殺され、婚約者も犠牲になる。オモニは、幼い弟妹を連れて、大阪に逃れたのだった。

「済州4・3事件」は、韓国では長年タブーの出来事になった。2003年、革新の廬武鉉(ノムヒョン)政権が、事件を国家権力による人権蹂躙であると認めるまでは。

オモニは、2017年11月のインタビューのあと、アルツハイマー認知症が急激に進む。明晰な知能が壊れていく様は、観ていて辛い。それでも、北朝鮮を称える歌はうたうことができる。側でその歌を聴く娘は、涙をこらえることができない。その悲しさは、観る者も共有する。北朝鮮は、オモニの思いに答えることができる国なのか、と。

2018年春、「4・3事件70周年追悼式」が行われた。オモニは、娘夫婦に伴われて、70年ぶりに済州島を訪れる。壁一面に掲示された数知れぬ墓碑銘。広場を埋め尽くすように立ち並ぶ犠牲者の墓。それらの映像だけでも、事件の残虐さを想像できる。娘は、済州島に来てはじめて、オモニが理解できたという。韓国政府を否定し、3人の兄を渡航させるほど北朝鮮を信じた母を。

私は観終わって、この映画は劇映画ではないのか、という感慨を持った。物語性が豊かであることはいうまでもないが、私の心への伝わり方が、優しく柔らかく、しかも深いものであったことがその思いの理由かも知れない。私はこの映画で、「済州4・3事件」を学ぶことができた。そしてそれ以上に、日常を生きるオモニの姿から、人が生きることの底知れない哀しみ、また喜びを、しっかりと味わうことができたのだった。

2022年8月3日 於いてユーロスペース

2021年 韓国・日本映画
監督・プロデューサー・ナレーション・編集:ヤン・ヨンヒ
撮影監督:加藤孝信
編集・プロデューサー:ベクホ・ジェイジェイ
音楽監督:チョ・ヨンウク
エグゼクティブ・プロデューサー:荒井カオル

2022年8月6日 j.mosa