時代を映し、時代を超えるオペラたち――この秋上演のオペラ作品
この秋にはオペラをよく観に行った。日にち順に記すと以下のようになる。これだけの本数を観ていながら、まだこのブログにはひとつとして取り上げていない。単純に多忙だったからにすぎないのだが、今年も残すところわずかになってしまった。記憶をたどりながら、簡単にこれらのオペラ振り返ってみたい。
10月8日 ヘンデル『ジュリオ・チェーザレ』(リナルド・アレッサンドリーニ指揮、新国立劇場)
10月23日 ヴェルディ『ファルスタッフ』(チョン・ミョンフン指揮、オーチャードホール)
10月30日 ヘンデル『シッラ』(ファビオ・ビオンディ指揮、神奈川県立音楽堂)
11月5日 モーツァルト『魔笛』(ヤーノシュ・コヴァーチ指揮、東京文化会館)
11月26日 ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』(大野和士指揮、新国立劇場)
これらのオペラがつくられたのはかなり昔である。ヘンデルといえば、彼が活躍した時代から300年近く経っているし、一番新しいムソルグスキーでさえ150年も昔の人だ。しかし彼らのオペラは、今もなお世界の劇場で主流の座を占めている。そこには、時代を超えた普遍性が存在するのだと理解するが、オペラは音楽とともに劇でもある。
抽象的で内面的な音楽に対して、台本は極めて具体的である。それが史劇であればなおのこと、具体性が強い。観る人も歴史的事実を把握している。しかも、台本作者の歴史観は、作曲された時代の制約を負っている。にもかかわらず、例えば『ボリス・ゴドゥノフ』などは、世界中で上演されている。
2月24日の、ロシアによるウクライナ侵略以来、ロシアの文化は世界的に敬遠されがちである。文学や音楽など文化は、プーチンの時代錯誤の大スラブ主義とは関係がないにも関わらず。そのようななか、ロシアオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』をあえて上演した新国立劇場オペラ芸術監督の大野和士には敬意を表したい。彼の指揮したムソルグスキーの音楽は、重厚で迫力があり、これぞロシア音楽と、大いに満足した。
とはいえ、その舞台は、混沌を極めたとしかいいようがない。史劇を離れ、矩形の箱などを多用して、現代化を試みた。その結果、肝心の話の筋が掴めない。はじめてこのオペラを観た人は、いったい何のオペラやら分からなかったにちがいない。私も帰宅してから、手持ちのDVDを観直したほどだ。タルコフスキー演出の1990年のマリインスキー劇場の舞台は、ボリスの孤独が際だち、権力に猛執する登場人物たちの醜さを観ることができる。ここにこそ普遍性が存在する。
ヘンデルの『ジュリオ・チェーザレ』と『シッラ』も史劇である。2作品ともローマ時代の皇帝を描いている。そして両方とも、主たるテーマは男女の愛。ゆえに、歴史的事実を超えて、普遍性を帯びる。だいたい、オペラ作品のほとんどが、愛をテーマとしているのだ。
『シッラ』はコロナ禍で2年間延期になった、待望久しい舞台。日本初演である。演奏会専用会場の制約をはねのけて、観ていてわくわくする要素に満ちていた。衣装も装置も、ローマ時代から離れて無国籍。しかも歌舞伎やら京劇やらの所作も垣間見える。それらが不思議に、ヘンデルの音楽に合っている。バロックとはそもそも「ゆがんだ真珠」の意味であるのだから、ごった煮も許されるのかもしれない。
第2幕のソプラノとコントラルトの二重唱の甘美なこと。ヘンデルのメロディメーカーぶりが躍如である。この歌を聴いただけで、遥々横浜まで出向いた甲斐があったというものだ。ファビオ・ビオンディ率いるエウローパ・ガランテの音楽が、躍動感に溢れて素晴らしい(この公演は2023年1月15日にNHKBSプレミアムで放映予定)。
皇帝シッラの暴君ぶりは、妄想が現実に転化されるさまがプーチンを思わせる。『魔笛』のザラストロも、信仰心の厚い宗教者などではなく、威圧的な権力者として描かれていた。これも、プーチンを想定しているのではないか。舞台も、現実政治の影響を受けないはずはない。
私は、アンドレア・ロストのパミーナを聴くために『魔笛』を聴きに行ったのだが、透明で伸びやかな美声は、衰えを知らず。大いに満足して帰った。
『ファルスタッフ』は、演奏会形式であるものの、指揮者のチョン・ミョンフンも演技に加わるなど、楽しい舞台であった。音楽を聴こうと思ったら、演奏会形式の方がいいのでは、と思わせるほど。チョン・ミョンフンの、メリハリのある硬質な音楽は、ヴェルディにぴったりである。
音楽とドラマが融合したオペラ。多様な観方、聴き方を誘って、やはり面白い。
2022年12月10日 j.mosa