日本のオペラに未来はあるか?――香月修《夜叉が池》をめぐって

このコラムは、映画やオペラから受ける感動を伝えることを目的としている。故に、私の心を何事もなく通り過ぎた作品や上演については、ここに記すことはない。残念ながら、まずはほとんどがその類いの作品・上演なのだが。

今回とり上げる香月修氏作曲のオペラ《夜叉が池》(6月28日新国立中劇場)は、以上の基準からするとまったくの例外。むしろ不満が先に立つ上演だった。従ってここでの私の興味は、自らの心の動きではなく、この上演をめぐる新聞紙上の評価にある。

7月1日の朝日新聞には、新聞の音楽評には珍しく、辛辣極まりない評が出た。まるで120年も前の、凡庸で時代錯誤的なオペラ、このような作品に国が金を出すのは問題ではないか、とまあ、つづめていえばこんな主旨(評者は長木誠司氏)。この作品は新国立劇場の委嘱作品なのである。

ちょっと過激な評なので印象に強く残ったのだが、共感するところが多かった。この上演を観た帰り、友人とさんざん不満をぶちまけ合ったのである。ワーグナーに倣った、まるで19世紀のオペラではないか、舞台も竜宮城で、泉鏡花の幻想性にはほど遠い、云々。個人の欲望と村人全体の安全、つまり公私の間ののっぴきならない対立という、普遍的なテーマも内包した魅力的な題材だけに、私たちの失望は大きかった。

ところが、この朝日新聞の評が出た翌日、日経新聞にはまるで逆の評が出た。「現実と幻想、和風と洋風とが入りまじる鏡花の妖異世界を再現して、オペラの音楽とドラマが高い完成度を示した」と、驚くほどの高評である。新国立劇場の財産となるプロダクションとなろう、とまで書いている(評者は山崎浩太郎氏)。じつはこの記事、日経をとっている友人がFAXをくれたのだ。オペラ《夜叉が池》を褒めている評者がいる!と驚いて。

私は朝日の評を読んで、やはり《夜叉が池》は失敗作だったのだと実感したのだが、日経のオペラ好きの読者でこの作品を観なかった人は、無念の思いをかみしめたことだろう。音楽に限らず、芸術に関する批評は難しい。評者の主観の割合が大きいからだ。文学も含めて、「実感批評」を克服することは永遠のテーマでもあろう。

現代オペラに関しては、たとえばベンジャミン・ブリテンの《ピーター・グライムズ》は、人間の孤独を表現して恐ろしいばかりだし、ジョン・アダムスの《ドクター・アトミック》は、科学と政治ののっぴきならない関係を極限まで追求した。フィリップ・グラスの《サティアグラハ》も、独特のミニマル・ミュージックの手法で、ガンジーの思想の高潔性を訴えた。いずれも、演劇では表現できない、音楽劇ならではの深さを持っている。音楽も古さを感じさせない、まさに「現代音楽」である。

《夜叉が池》の失敗は、現代日本に生きる作曲家に、いまいかなるオペラを創るべきなのか、という問題意識が欠落していたからではないのか。それは作曲技法以前の、もっと困難で深刻な、アイデンティティに関わる問題のような気がする。今秋11月23日の、西村朗氏の《バガヴァッド・ギーター》は、いったいどのようなオペラになるのだろうか。いよいよ期待が高まろうというものである。

2013年8月7日 j-mosa