肉体の快楽と精神の愉悦 『バベットの晩餐会』

 初秋の夕刻、露天の温泉に身をゆだねて、空ゆく雲を眺めていた。暮れなずむ青空を背景に、わずかに夕陽に染められた雲が、ゆったりと動いていく。豊かな湯で身体はほどよく温められ、自然を楽しむあり余る時間もある。まさに至福の瞬間だった。肉体の快楽が人生に及ぼす影響も、なかなかに無視できるものではない、などと思いをめぐらせたのも、前日に観た『バベットの晩餐会』の余韻が色濃く残っていたからだろう。

 『バベットの晩餐会』が製作されたのは1987年。すでに20年余の歳月が流れている。我が家のDVDは、2005年に12チャンネルで放映されたものを録画したものである。なぜか旅の空の下で、もう一度その録画を観てみたいと、出発の直前、私はそのDVDをリュックに詰め込んだのだった。旅先の小さな受像機に映し出された映像は、またも私の心に静かな感動を呼び起こした。そして、肉体と精神の関わりについて、ささやかな思考を展開することになったのである。

 北国の荒涼とした砂浜。打ち寄せる波が荒々しい。海岸近くには漆喰で固められた粗末な家が何軒かあり、軒下には何尾もの鱈が吊るされている。そのうちの一軒の家の、さほど広くない一室に、年老いた姉妹を中心に何人かの人々が集っている。賛美歌が歌われているところをみると、どうやらクリスチャンの集いであるらしい。いかにも宗教映画が始まるという厳かな雰囲気である。

 そう、この映画は、ある意味では宗教映画である。舞台となるユトランド半島先端の小さな漁村は、教会を中心にして生活が営まれており、かつて存在した高潔な牧師の教えを精神的な支えとしている。生活は貧しいながらも、神への信仰を共有して、互いに助けあう毎日である。単調ではあるものの、このような日常が幸せでないことはあり得ないであろう。

 時は19世紀の半ばをはさんでの50年間、世界は大きなうねりをもって動いていた。この寒村にかかわることになる二人の青年もその渦に巻き込まれる。一人はスウェーデンの軍人として出世し、一人はバリトン歌手として一世を風靡するが、ともに晩年の満ち足りなさを嘆くことになる。富や名声や権力だけでは人生を完結できない。この映画は、人間の幸せとは何かを問う、哲学的な映画ともなっている。

 このように書いてくると、いかにも真面目で、面白さに欠ける映画のような印象を与えてしまうが、なかなかそうではないのである。この映画は、気の利いた恋愛映画ともいえるのだ。登場人物は前述の二人の青年と、牧師の二人の娘である。50年の時を遡った彼ら二組のほのかな恋のやりとりは、謹厳な牧師もからんで、ユーモアに溢れている。とりわけバリトン歌手パパンと妹娘フィリパの出来事はおかしい。この寒村で休暇を楽しんでいるパパンは、教会で賛美歌を歌うフィリパの美声の虜になる。神の栄光を美しく歌うのに役立つと牧師を説得し、フィリパの歌のレッスンをすることになるのだが、その教材はなんとモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』。しかもあろうことか、ドン・ジョヴァンニが村娘ツェルリーナを誘惑する二重唱なのである。これは私も大好きな美しい歌だが、ツェルリーナの揺れ動く女心が見事に表現された、ある意味でまことに危うい歌である。パパンは即刻首になる。

 さてこの映画の最大の観所は、もちろん、家政婦バベットが料理を供する晩餐会である。極め付きのフランス料理が出てくるので、この映画はグルメ映画ともいえそうである。ところで、そもそもバベットとは何者なのか。貧しい老姉妹の家に、なぜ家政婦が存在するのか。知的な相貌をもつ彼女は姉妹には一目置かれ、どうやら信者の人たちにもなくてはならぬ存在であるようだ。

 バベットが姉妹の家の戸を激しく叩いたのは、1871年のある嵐の夜だった。バリトン歌手パパンの紹介状を携えていた。彼がこの村を去ってすでに35年、フランスではパリ・コミューンの革命の嵐が吹き荒れていた。すでにコミューンは崩壊のさなかにあり、バベットはその混乱を逃れてきたのだ。夫も息子も動乱の中で死亡しており、行くところのない彼女は、いわば拾われる形で姉妹の家に住み込んだのであった。

 それからまた14年の歳月が流れ、バベットはすっかりこの村の住民となっている。パリとの関わりはただひとつ、宝くじである。パリにいる友人が折をみては買ってくれているのだ。そしてその宝くじで、彼女は1万フランという大金を得ることになる。庶民に大金が転がり込む契機としては、宝くじに当たるか、遺産が手に入るかしかない。後者ではありふれており、この映画の場合、宝くじがふさわしい。それはともかく、バベットはその大金を、亡き牧師の生誕百年を祝う集いに使うことを決意する。  

 食材の準備からして破天荒である。巨大な海亀が不気味に首を振り、ケージでは十数羽の鶉がせわしく鳴き交わす。何種類ものワイン、野菜果物の数々、氷の固まり。食材だけではなく、見慣れぬ食器や調理道具もある。すべてバベットが十数年ぶりにフランスに帰国して買い求めたものである。質素を旨とするプロテスタントである姉妹は動転する。バベットは悪魔に魂を売り渡した魔女にしか見えない。炎に焼かれて海亀がのたうちまわり、バベットが毒を盛る。そんな悪夢に姉娘マーチーヌは悩まされる。

 晩餐に集った人は12人。功なり名遂げ、将軍にまで栄達したローレンスもそのうちの1人である。彼ははるか昔、マーチーヌに恋をして思いを遂げられず、この村を淋しく去ったスウェーデンの士官である。集いは彼を核にして進められる。バベットが供する料理を正当に評価できるのは、彼のような上流階級でしかない。

 食前酒を口に含むや、ローレンスの目の色が変わる。「とびきりのアモンティヤード!」。スープはさらに彼を惑乱させる。「これは正真正銘、海亀のスープですぞ!」。極めつきは鶉のパイである。彼はかつてパリの超一流レストラン、カフェ・アングレでこれと同じものを食べた経験があった。料理の名は「鶉のパイ詰め石棺風」。フォアグラとトリュフも仕込まれている。そこの女性シェフのオリジナル料理だと言う。「彼女は料理を、一種の情事にまで高めたのです!」。将軍はいささか興奮気味である。「食べ進めると、もはや肉体の喜びなのか、精神の高まりなのか、区別がつかなくなる!」。

 他の臨席者の反応は鈍い。舌は神を賛えるためにあるのであって、料理を味わうためにあるのではない、と固く信じている彼らにとっては当然の反応なのである。ここは、敬虔なプロテスタントたちに、カトリックのバベットが力の限り挑戦しているのだと解釈できないこともない。そしてバベットの供するとびきりの料理は、そんな彼らの頑なな思いを少しずつ溶かしていく。牧師がこの世を去ってすでに数十年、信者たちの間にはすき間風が吹きはじめていた。料理は、人と人との関係を融和する力さえ持っていたのである。また、己れの人生に懐疑的であったローレンスの心も、異性の愛を知ることのなかったマーチーヌの心も、ともに料理に温められ、別れ際には永遠の愛を誓うことになる。

 姉妹がもっとも恐れていたことは、1万フランを手にしたバベットがこの地を去っていくことだった。しかし彼女は留まる。1万フランはすべて料理に注ぎ込まれたし、カフェ・アングレの元シェフ、バベットの帰る場所はパリではなく、この貧しい村なのであった(ちなみに当時の1万フランは今の700~800万円くらいか)。

 この映画は、確かに、すべてがおとぎ話かも知れない。しかし、このおとぎ話は、物語のすみずみにまで血が通い、不思議なリアリティを持っているのだ。宗教について、革命について、愛について、人間の幸福について、心と身体のあり方について――観終わって、様々に思いをめぐらさないわけにはいかない。しかし、満ち足りた、とても幸せな気分になることは間違いない。「私は人を幸せにしました」。晩餐の後、バベットは誇らしげに姉妹にこう告げるが、ここにこそ芸術の本質があるのにちがいない。

 巻頭に流れる、不協和音を多用した、それでいて心に染み入る不思議なピアノの調べ――これはローレンスとマーチーヌの若き日の出会いの場面でも用いられるが、フィリパが劇中で弾く晴朗なロココ風の音楽ともども大変印象的である。音楽の流れる場面は少ないものの、じつに大きな効果を上げている。光と闇をたくみに交錯させた、まるでフェルメールを思わせる美しい映像と合わせて、この映画はまた、第一級の「雰囲気の映画」といえよう。

1987年デンマーク映画

監督・脚本:ガブリエル・アクセル
原作:アイザック・ディネーセン
撮影:ヘニング・クリスチャンセン
音楽:ペア・ヌアゴー
出演:ステファーヌ・オードラン(バベット)、
ジャン・フィリップ・ラフォン(パパン)、
グドマール・ヴィーヴェソン(ローレンス・青)、
ヤール・キューレ(ローレンス・老)、
ヴィーベケ・ハストルプ(マーチーネ・青)、
ベアギッテ・フェザースピール(マーチーネ・老)、
ハンネ・ステンゴー(フィリパ・青)、ボディル・キェア(フィリパ・老)。

2008年10月3日
j-mosa