青木の書斎の横に植えられたキンモクセイが満開で、家中にむせるほどの香りがただよう。表を歩けばいたるところの樹木で、伊豆高原中がキンモクセイの香りに包まれている。遅れていたススキの穂も満開で、遠く去った仲秋の名月を懐かしんでいるようだ。
年老いても自立できず、未熟な男たち
10月4日のNHK「クローズアップ現代」で、「妻に先立たれた男たちの悲嘆」が放映された。同じ境遇とて共感すべく視聴したが、まったく理解できないというか、驚きあきれ、こちらが異常なのかと疑ってしまった。
俳優の仲代達矢氏をはじめ、妻に先立たれた老人たちが登場するが、どのひとも茫然自失して3カ月は泣き暮らし、酒におぼれ、自殺さえ考えたという。登場した彼らだけではなく、妻に先立たれた多くの男たちが鬱病を病み、そこから這い上がれないという。
仲代氏や仕事をもつひとたちは、仕事中は気を紛らわせるが、家に帰ると妻の履物を見て涙し、クローゼットを開けて衣服に涙し、耐えられない気分になるという。なかには、預金通帳のありかさえわからず、ただただおろおろするだけで、食事もコンビニの弁当やインスタント物ばかりを、しかも食欲もまったくなく、ただ詰め込むのみという。こうした困っている(私にいわせれば「困った」)男たちを支援すべく、自治体やNPOが活動をはじめたという。
興味深かったのは、妻に先立たれた男が悲嘆にくれる率は100パーセントであるのに、夫に先立たれた女たちのそれはわずか30数パーセントであるという統計である。これは何を意味するか?
つまり多くの男は、社会的・経済的に「自立」し、仕事をこなしてきたが、生活のレベルや意識や精神のレベルではまったく自立していないどころか、老年になっても未熟なままであったということを示している。男は仕事、女は家事という性差別を疑いもせず、生活のすべてを妻にゆだね、家事ひとつできなかった男たちは、妻に先立たれてはもはや自立して生きていくことはできない。彼らの悲嘆のかなりの部分が共に暮らした家族(ペットを含め)に対する愛情であることはたしかだが、残余は人間的なものというよりも(本当に妻を愛していたら家事の分担などなんのこだわりもなかったはずだ)、自分を生活させ、支えてくれた家事労働者を失った悲嘆にすぎない。
逆に多くの女は、いわゆる社会的・経済的自立はともかく、生活や精神のレベルでは、男よりはるかにたくましく自立していることを物語っている。妻の方から申し立てる定年離婚が増加していることも、こうした事実を裏付ける。
妻に先立たれた同じ境遇の自身のことを書くのは面映ゆいが、性差別の根源を断ちきるためにもあえて書いておこう。
覚悟はしていたとはいえ、青木やよひの死に直面しても私にはなんの動揺もなかったし、いわゆる悲嘆もなかった。人間はいつか必ず死ぬのであるし、末期ガンの悲惨もなく、眠るような彼女の死は美しかったうえ、死の前日の対話で彼女自身が語っていたように、その生涯もきわめて充実し、幸せであったからだ。
55年をともにした生活のなかで、彼女に仕事をしてもらうため、私は当初から気負いもなく家事を分担し、とりわけ彼女が仕事に集中しているときは、私が料理をはじめ、ほとんどの家事をしてきた。むしろ資産の運用や家の建築やリフォームなど、ふつう男が分担する雑用は、面倒臭がりの私に代わって彼女が取り仕切ってきた。性別にかかわらず、それぞれが得意なことをするのがわが家のしきたりであったといえよう。
死後一年が経とうとしているが、いまなお私のうちには幸福感が充満している。なぜなら、ともに暮らしているときは、むしろ意見の衝突や時には喧嘩もしばしばであったが、いまとなっては、たとえばクローゼットを開ければ、あれはドイツに一緒に行ったとき着ていたものだなど、懐かしくいい思い出だけが浮かび上がり、心温まるばかりだからである。そしてあのようなすばらしいひとと55年ともに暮らしてきたのだという誇りが、私に生きる充実感をあたえてくれている。



